私にも高校の時から連んでいるツレが居る。私の住んでいるのは田舎で、保育園から中学校までは近所の同じ顔ぶれで通い、高校に進学する時にバラバラになる。
高校での友人というのは、言い方は悪いが受験で「ふるい」にかけられた同レベルの者が集まり、また子供から大人に変わる変化の一番大きな時期でもあり、幼なじみや大学や社会人に成ってからの友人とは違い、何か特別な結びつきがある。
これは私に限ってという訳でもなく、周りを見回してもその傾向が強く見れる。
私は、私の住む地域では有名な公立の進学校に進んだ。例年東大への進学者を出し、大阪大学、京都大学、神戸大学と名門大学へと進学する者を多数出している。しかし、それは「普通科」に限ったことで、私はその高校の「商業科」へ入り、しかも遊びに忙しかったため、劣等生の私が後に進んだ大学の名前など、普通科の奴らに話しても知る者も無かった。
「商業科」は2クラスあり、男子22名女子66名と1クラスの男子は11名。そんな中で4人が集まった。「商業科」ということもあり、家業を継ぐ長男が多く、水道屋の長男F、金物卸業の長男Y、家業は無く次男坊のM、そして木工業の長男の私である。
Fは中学時代は悪いこともしていたが妙に真面目な所がある。しかし、ギター部に入り当時からバンドを組んでいて今でも祭りになると野外ステージを組んでがんばっている目立ちたがり屋。
Yは陸上部で、短距離では県大会程度まで行ける。真面目で大人しく、話をしても返事が返ってくる程度の目立たないやつ。しかし、スポーツ万能で勉強も我々の中では一番だった。
Mは柔道部で柔道中心の生活、破天荒な性格のちょっと危ないやつ。
私は科学部か写真部をウロウロして、クラブも性格も適当なやつ。
そんなクラブも性格もバラバラな奴らがどう集まったのかは忘れてしまったが、私とM、FとYという組み合わせで私とFが付き合う様になり4人が出来たと思う。
とにかく高校2年頃から集まってはウダウダと話をしたり、休みになると女の子を誘って出かけたり、暇を見つけては麻雀に明け暮れた。
高校を卒業してからはFは家業を継ぎ、YはK大へ。クラス44名中44番と一番成績が悪かったMと43番の私は共にS大へ進学した。
私とMは大学の寮へ入りMはボクシング部へ、私は美術部へ。寮での部屋は同じだったので1年は共に過ごしたが、その後Mは女の所へ入り浸りヒモ状態。バイクに目覚め無免許で何度も捕まりそれでも乗り続けている。
Yは大阪でアパートを借りていたが、1年に数日大学へ行けば卒業できる様な大学らしく、ほとんど家の手伝いをしていた。
だから共に大阪の大学に進んでいながらYとは会うこともなく、主にFと田舎でよく遊んでいた様だが、夏休みにはみんなでキャンプへ行くのが恒例で、正月には麻雀に浸かっていた。
それから数年が経ち、3人は家業を継ぎMはどこに住んでいるとも知れず、結局3人で遊ぶ様に成った。
何処かの飲み屋に可愛い子が入ったと聞けば呑みに行き、何処かの飲食店に可愛い子が居ると言えば喰いに行き、色んなツテを見つければその方面から声をかけては女の子を誘って遊びに行き、女の子目当ての遊びが多かったが、大半の時間は各々の別の友人を誘って麻雀だった。
そんな時、誰かが中古の全自動麻雀卓の広告を見て「これを買おう」と話が進んだ。
みんなでお金を出し合って買おうとしたのだが、中古といっても20万もするので、そんなお金は無い。そのとき「とりあえずオレが出しとこか」と言ったのがYだ。
私やFは持った金は趣味や酒に使ってしまうのだが、しっかり者のYはちゃんと貯金もしていた様だし、当時から株を趣味程度に触っていてそれなりに利益を上げていた。
今思い起こすと、私とFはお互いに強情なところや自己主張が強いタイプで、Yが我々の「受け」と成っていてくれたからFとの仲も破綻せずに良い関係を保っていたのかもしれない。
結局、Yに支払いをしてもらって、麻雀で負けた者がその負け分をYに支払い補填してゆくという方法で話がまとまり、いつの間にかメンバーの定番と成ったAとKを巻き込んで暇さえあれば麻雀をした。
結婚をすると生活が急変する。自分の生活はもちろん、友人との付き合いも優先順位が違って来る。
我々も例外ではなく、誰かが結婚する度に付き合い方に制限が増え、暇さえあれば麻雀をする様な生活は終止符を打つ。
一番最初に私の結婚が決まった。当時は麻雀台を我が家に置いていたので週に3日はFとYが遊びに来ていた。
私の妻は「いいかげんにしろ」と荒立て、週に1度くらいに減り、その後麻雀台もYの家へ移動することに成った。
しばらく経ってFが結婚した。バンドを組んでいるFは楽器店で働いている子と結婚した。
必然的にFと奥さんとの共有の友達であるバンド仲間との交流が優先順位を上げ、麻雀仲間は順位を大きく下げた。
月に何度か麻雀に集まっていたのが盆と正月程度になってしまった。
私の場合、スポーツで有名な大学へ進学したが運動部へ入る気も無く、運動部逃れと「女子大生との楽しいコンパ」という勧誘文に釣られ美術部に入り、美術部サークルで知り合った子と結婚したので、F夫婦と同じように夫婦共通の仲間は沢山居た。しかし、卒業と同時に地方に離れてしまっているので、優先順位は上であってもその仲間と頻繁に会う機会などは無く、結局は妻もFやYと仲良くしていた。
私の妻は我々の結婚当時、毎日の様に我が家へ押しかけていたFが結婚と同時に姿を消した様だと言い、Fの家にも長い間呼ばれたことが無いのが気に喰わぬ様で、わざわざ私が段取りして何度か遊びに行った。
そして、Yである。私が結婚してから10年以上経っていたが、9歳も年下の子と結婚することが決まった。
テニス仲間である。昔、私が美術部仲間での合宿にYを連れて行った事がある。Yも、もしかすると楽しいアバンチュールが・・・という期待を持っていたに違いないが、その時初めてテニスをした。スポーツが得意なYは初めてなのにそれなりにラリーも出来ていて、その後地元のテニススクールに入り、まもなくそのスクールのコーチに成っていた。
そんな関係で、二人の共通の仲間はテニス仲間である。麻雀仲間は当然ながら部外者だ。
結婚が決まった時、私とFの夫婦と共に6人で夕食を食べた。
Yの結婚式ではキャンドルサービスのロウソクの芯を切り、おまけにビールで濡らしていたため私たちのテーブルで時間を食ってひんしゅくをかったりしたが、Fと二人で替え歌を作り、カラオケでハモりパートを練習し、ビニールテープで衣装に模様まで付けて歌い、なかなか好評だった。
Yの奥さんと会ったのはその後新婚旅行のおみやげを持ってきてくれた時を含めて3度だけだった。
新居を建てて暮らしている様だったが、一度も訪れたことも無く、盆と正月だけに成っていた麻雀にも少し顔を出すだけで、すぐに帰った。
顔を出すだけまだマシかと思っていたが、その後皆が色々と忙しくなり麻雀台も壊れ、麻雀は忘れ去られた。
もともと麻雀は賭けが目的ではなく、酒を呑みながらウダウダ言っているだけの交流の場だったから、麻雀自体が好きな訳でも無い。ただ、集まる口実にすぎなかった。
まだ麻雀をハイペースでやっている頃、Yへの麻雀台の代金支払いも終わったが、相変わらず負け分をYに預けていたので、みんなで旅行へ行こうと企画した。我々3人にAを加えて4人で長良川へ、温泉でゆっくりとかでは無く、はなっからコンパニオン、風俗店が目当て。各々に酔いつぶれ、単なる無駄遣いでもあったが皆が楽しんだ時間でもある。
Yが結婚した後にも、麻雀はやめてしまったが、みんなで出し合った金があるのでもう一度旅行へ行こうと4人でサイパンへ行った。
むさ苦しい男4人がサイパンで何をするのかと考え、私が提案したのが「スカイダイビング」だ。
Yは乗り気だったがFとAは反対した。結局むりやり強行したが皆が感動し、最後まで嫌がっていたFは「人生観が変わった、誘ってくれてありがとう」と、何度も何度も私に言った。
船を貸し切ったトローリングではカツオを数十匹釣り上げ、パラセーリング、シュノーケリング、夜は酒場で盛り上がりマッサージへ通い贅沢三昧、男4人でこんなに楽しめるのかと不思議なくらい楽しい日々を過ごした。
もちろん、ナンパ目的でディスコへも行ったが、現地の男が片っ端から若い日本の子を連れ去って、何も残らない状態で、日本人女性が「イエローキャブ」と呼ばれる所以ををまざまざと実感した次第・・・。
各々が各々の都合でチグハグになった関係ではあったが、出会わないからといって不仲になったという訳でもなく仲の良い友人としては、なんら変わりがなかった。
平成17年2月4日。その日は取引先の会長が亡くなり、昼食を早く済ませ葬式へ行くための着替えをしていると、Fからの電話で携帯電話が鳴った。
Fは新しいショールームをオープンする。キッチンリフォームを提案するショールームで、水道屋のFは、神戸のデザイン会社や近隣の工務店と連携して新しいビジネスを展開しようとしてバタバタと慌ただしい日々を送っており、私もそのショールームのサイトを作るのを手伝っていたので、その打ち合わせだと思っていたが、「Yが死んだらしい」と、Fは告げた。
詳しいことは解らないということだが、とりあえず今夜Y宅へ行こうという事で電話を切り、私は取引先の葬儀へ向かった。
葬儀のあった取引先は近隣では有名な金物卸業社で社葬には数百名の参列があり、金物業を営んでいたYの話題もちらほらと聞こえてきたが、死因については出張先での交通事故とか、急死だとか確かな情報は得られなかった。
夕刻になりF宅へ車を走らせFを同乗させてY宅へ向かった。Yの母は泣きながらYの寝ている部屋へ私たちを案内し、「一番来て欲しい人が来てくれたよ」とYへ言った。まるで生きているかの様な綺麗な寝顔で寝ているYをしばらく眺めた後死因について尋ねたが、明確な返事は得られなかった。
5歳の子供にはまだ事情が良く解らない様子で、それがせめてもの救いの様に思えたが、奥さんのお腹には3月に出産予定の子供が居た。
母親と奥さんと冗談や笑いも含めて小一時間ほどYの思い出話をしてその夜は帰路についたが、私もFもYが自殺の可能性が大きいと感じ、なんとも言えないままその夜を過ごした。
Fのショールームのオープン記念イベントの土日がYの通夜と葬式と重なった。Yの母もショールームオープンの案内をもらっていたのに残念だと話していた。
土曜日は妻と一緒に午前中に花屋へ走り、ショールームオープン祝いの花束を持ってFのオープンイベントへ出かけ、夜はYの通夜へ出かけるなんとも複雑な一日だった。
私自身自殺という選択肢を考えた事はある。会社の借入と業績、今後の情勢を考えると安易な道として自殺という選択がある。
自殺で得られる保険金で家族は潤うのは確かだが、心の傷を植え付ける事になるだろうと思うと単なる自己逃避でしかない。
Yの場合はどうなのだろうと考えると、保険金目当ての自殺ではないだろう。会社の業績は良くないだろうが、会社規模から見てもYが自殺したところで補えるものでもないと思う。
もともと人付き合いの苦手なタイプでもあったし、営業の中枢を任され、不景気で業績は落ち込み会社からの期待と責任感に板挟みになった結果ではないかと私は考えるのだが、本当のところは解らない。
ただ、「私が何か力になってやれる手だてが無かったのか?」と思う。無理矢理にでも引っ張り出して一緒に呑みながら愚痴の一つも聞いてやれば良かったんじゃないか?私やFなら同じ経営者として何かアドバイスとか心構えを話してやれなかったのか?麻雀でもしながら馬鹿な話をしてストレスを発散出来ればどうだったのか?
今となってはどうしようもない事だが、Yの母が言った「一番来て欲しい人が来てくれたよ」の一言が重くのしかかる。
通夜と葬儀を終え、意外にも悲しさを感じていない自分が居た。
ただ、何か一つ私の中の部品が消えてしまった様な気分で、今までにない虚脱感が続いた。